音楽と服

音楽と服について好き勝手に語ります

デヴィッド・ボウイとの約束

初めに断っておくが,勿論私はデヴィッド・ボウイと実際に約束を交わしたわけではないし,会ったことも,ライブに行ったことすらない。

 

でも,彼が最後のアルバムに込めたメッセージだけは受け取っていると自負しているし,彼自身もリスナーに何かしら伝えたかったことがあったはずだ。

 

「音楽を聴く」という行為自体が,アーティストが音で表現したかった「なにか」を自分なりに受け止め,解釈して落とし込んでいくものだとしたら。

私がボウイの遺したアルバムを聴いて,自分なりに彼の伝えたかったことを想像して,そのことを心の片隅にでも残しておくこと。

 

そして,忘れないこと。

 

それって,アーティストとリスナーの「約束」とは呼べないだろうか?

 

 

今日は,2022年1月8日。

ボウイが生きていれば,75歳になるはずの日だ。

 

そして,あと2日経てば,1月10日だ。

ボウイがこの世を去ってから,6年の歳月が流れたことになる。

 

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私がボウイの音楽と初めて出会ったのは,23歳のときだ。

 

当時の職場にロック好きのおじさんがいて,アルバムを借りたのがきっかけだった。

そのおじさんはギターが趣味で,職場でもバンドを組んで,近所にある小さなステージ付きのバーでよく演奏していた。

 

私はこのおじさんから,いろいろな音楽を教わった。

 

スマッシング・パンプキンズマニック・ストリート・プリーチャーズ,ザ・ヴァーヴ。

そして,デヴィッド・ボウイ

 

おじさんが貸してくれたのが,ボウイの「ダイヤモンドの犬」のツアーを収録した1974年のライブ盤(「DAVID LIVE」)だ。

 

当時からオアシスやビートルズを愛聴し,フジロックへの参戦歴があった私はそれなりに洋楽好きを自負していた。

 

しかし正直に言うとその頃の私は,デヴィッド・ボウイにあまり興味がなかった。

と言うよりも,奇抜かつ中性的な見た目ゆえ「なんだか得体の知れない人」と当時の私には映ったのだ。

 

しかし,借りて試しに聴いてみた「DAVID LIVE」が思いの外聴けた。 

 

「Rebel Rebel」のソリッドかつ高揚感に満ちた演奏。

「Rock'n Roll With Me」の情感溢れる歌声。

 

私のそれまでのボウイへの印象が,実は偏見に満ちたものだったと思い知ったのだ。

 

デヴィッド・ボウイは「得体の知れない人」ではないし宇宙人でもない。

 

彼の音楽は,見た目とは裏腹に温かみがあって,聴いたものに何かしら考えさせる深みがある。

一方で自分の見せ方にはこだわる人で,アルバムごとに異なるコンセプトを打ち出し,カメレオンのように独創的なファッションを変化させていく。

 

私はデヴィッド・ボウイの魅力に取り憑かれていった。

 

「ジギー・スターダスト」で異邦人になったボウイも,

ベルリン三部作でテクノへと接近し,ロックを新たな解釈で表現しようとしたボウイも,

「レッツ・ダンス」で肉感のあるダンス・ミュージックを志向し,軽やかに踊るボウイも,

 

ビジュアルや音楽性は様々だが,全てがデヴィッド・ボウイそのもので,その一つ一つを肯定したいと思った。

 

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ボウイのアルバム「★」がリリースされたのは,ちょうど今から6年前。

2016年の1月8日のことだった。

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非常にスタイリッシュなデザインだが,このジャケットを見た時に軽い違和感を覚えた。

 

私はボウイのディスコグラフィーはほとんど網羅しているが,そのアルバムジャケットには大抵ボウイ本人が登場していた。

 

ところが,このアルバムにデザインされているのは,黒い星★と,記号で描かれた「BOWIE」の文字のみ。

 

さらに,アルバムを開いてみると,違和感は不安へと変わった。

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黒地にボウイの写真が貼ってある。

口を半開きにして一点を見つめるその表情に目がいった。

 

おかしい。

 

デヴィッド・ボウイは自分の見せ方に並々ならぬこだわりをもつ人だ。

身も蓋もない言い方をすると,写真に収まる時にはいつも格好つけている。そしてそれがとても様になる人だ。

 

ところが,「★」に映されたポートレートは,これまでのスタイリッシュなデヴィッド・ボウイからは想像できない姿だったのだ。

 

これまでとは何かが違う。

 

そんな思いに駆られつつ,CDをステレオに入れた。

 

不穏なイントロから,溜息のようなボウイの歌声が入る。

おどろおどろしい雰囲気といってもよい。

一曲目のタイトルチューン,「★」は,聴く者の不安感を煽り立てるような,そんな曲だった。

 

前作「The  Next Day」の一曲目がやはり同じタイトルチューンで,自らの復活を印象付けるようやアッパーなロックソングだったことを思うと,対照的な入り方だと思った。

 

そこから,全体的にシリアスな曲が続く。

 

ラスト曲「I can't give everything」は,トンネルを抜けて光が射すような,非常に温かみがあってメロディアスな曲だった。

ボウイが,オリジナルアルバムのラストをこのような曲で締めるのは珍しいことだ。

 

そうして「★」を最後まで聴いた後,私はしばらく呆けたように頭を巡らせていた。

 

ジャケを見て感じた違和感。

いつもと異なる曲の構成。

 

何かがおかしい。

 

ざらざらとした正体不明の何かがそこにはあった。

 

ボウイの作品には何かしら,強いメッセージが内包されている。

それならば,彼が「★」で伝えたかったのは,一体どんなことなのだろう。

 

何度か繰り返し聴いてみても,勿論答えは出なかった。

 

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答えは,突然天から降ってくる。

 

その2日後,私は県外で開催されたハーフマラソン大会に出場した帰りに,一人で車を走らせていた。

1月10日のことだ。

カーステは,勿論ボウイの「★」をエンドレスリピート。

 

信号待ちをしている時に,ふとスマホでYahooのトップ画面を確認すると,新着ニュースが表示されていた。

 

デヴィッド・ボウイ死去。69歳。」

 

私は自分の目を疑った。

 

ボウイが死んだって?

 

2日前にアルバムをリリースしたばかりだぞ?

 

そう自問した瞬間,ボウイが「★」で伝えようとしていたメッセージが分かってしまったのだ。

 

「我こそはブラックスター」

そう繰り返す,アルバムタイトルチューンである「★」では,迫り来る死への覚悟を歌っている。

 

そして,ラスト曲「I can't give everything」には,こんな歌詞がある。

そう 何かがとても間違っている

この律動が放蕩息子たちを呼び戻す

動きを止めた心臓たちと花で飾られた報道たち

そして私の靴の上に刻まれた髑髏

 

私は全てを与えることはできない

全てを与えきることは

私は全てを与えることはできない

 


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優しく,包み込むような曲の中でボウイはこの言葉を紡ぎ出していたのだ。

 

彼は,自分が死ぬことを分かっていた。

 

この曲に綴られた言葉は,ボウイから私たちリスナーに贈られた餞の言葉に他ならない。

 

「私は全てを与えることはできない」


自分は神ではないと悟った時。

死期が迫っていることを知って絶望した時。

 

それでもこの言葉を,音楽を遺せるはずだと彼は思ったはずだ。

自分の音楽を聴いてくれるリスナーを信じようとしてくれたはずだ。

 

そうでないと,こんな言葉を綴ることはできない。

 

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だから私は,この「★」を通じて,ボウイと私は約束を交わしたのだと勝手に思っている。

 

「私は伝えられることは全力で伝えた。後は,自分の足でしっかり歩いていけよ。」

 

彼がそう言っているような気がしてならないのだ。

 

 

1月10日には,やはり「★」を聴いてみることにする。

少しくらい感傷的になってもいいじゃないか。

 

多分空から,★になったボウイが微笑んでいるはずだから。