寒空に漂う紫煙に思うこと
私が煙草をやめたのは,忘れもしない2016年の9月18日だった。
別に何かきっかけがあったわけではない。
確かその日は休日で,でも出勤するために車を走らせていたのだ。
いつものように,カーラジオを聴きながらハンドルを握っていて,突然頭に降って湧いたようなアイデア。
「煙草やめてみたら,どうなるだろう」
これは,アイデア以外の何者でもなかった。
そもそも私は煙草を始めてからそれまで,煙草をやめるという発想に至ったことが一度もなかったのだ。
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始めたのは23のとき。
それから量は決して多くないが,32歳まで10年近く愛煙家だった。
周りが「禁煙するわ」と言って吸うのを我慢している時も,全く影響を受けることはなかった。
だって旨いんだもん。
一仕事終えた後のコーヒーと一服。
サウナ三往復した温泉上がりにコーヒー牛乳と一服。
フジロックで折り畳み椅子に腰を下ろしてハイネケンで乾杯した後の一服。
忘れられない一服の思い出は数知れず。
でも,優勝はぶっちぎりで温泉上がりの一服。
これはコーヒー牛乳とセットでないと至福感が半減どころか八割減くらいになるが。
心の底から「生きてる」と思える瞬間だった。
そんなこんなで,至福の瞬間をもたらしてくれる喫煙ライフを手放すことなど,考えたことがなかったのだ。
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そんな私に天の啓示の如く,突然降ってきたアイデア。
「煙草やめたら?」
面白そうだな,と思った。
やってみてもいいかなと思った。
大体,煙草を吸うタイミングはルーティンになっていて正直,惰性でやっている感覚も大きいなと感じていたからだ。
それから職場に着くと,10本以上残っていたセブンスターのメンソールを箱ごと燃えるゴミ入れに放り投げた。
ついでに携帯灰皿も捨てた。
それから,五年以上は煙草と無縁の生活を送ってきた。。
というと,嘘になる。
年に数回だが,外仕事の時に先輩が吸っているのを失敬することもある。
先輩も,私が吸っていたことを知っているから勧めてくれる。
私も遠慮しない。有り難くいただく。
悪くない時間だ。
だけど,自分で買うことはない。
やめてみて気付いたのは,別に吸わなくても困らないこと。
もともとそこまで依存していたわけではないからだろうか。
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先日,外回りをしていて信号待ちをしていたら,向かいの不動産屋から社員らしきお兄さんが出てきて一服やっていた。
昼休みだろうか。
実に旨そうに白い煙を空に吐き出していた。
その姿に既視感を覚えた。
それは昔の自分だった。
「あー,自分もああやって気分転換してたな。」
昔のことを思い出したのだ。
煙草を吸っていた頃は,一仕事終えた時,煮詰まった時,気分転換に外に出たものだ。
そして空を見上げながら紫煙を燻らしている時に,ふっとアイデアが閃いたり。
あんなふうに,自分を見つめ直す時間が今はなくなっていることに気付いたのだ。
煙草が百害あって一利なしであることは百も承知だし,世の嫌煙化に一石を投じるつもりは全くない。
だけど,昔は煙草を吸う人に対しても,もっと大らかな社会だったよな。
そして,煙草を吸う時間というのは,少なからず一息入れる,リセットする時間でもあったのだ。
そういうゆとりが,今の自分からもなくなっているなあということに気付かされた。
まあ,煙草をやめたのが全ての原因ではなかろうけど。
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先日,職場に通知がきた。
こう書いてあった。
「勤務時間内の喫煙は禁止する」
既に敷地内喫煙は10年以上前に禁止されていたが。
これって,休憩時間も含むのだろうか。
ということは,朝8時から夕方17時までは吸ってはいけないということだろうか。
そこまで縛られないといけないものなのだろうか。
既に喫煙者でなくなった身にもそう感じられた。
ゆとりがなくなった現代人。
そこに,だんだんと居場所を奪われていく愛煙家たちの悲しき背中が重なる。
「キース・リチャーズの不良哲学」より。
この人は実に旨そうに煙草を吸う。
ポートレートを眺めていても,大抵は煙草をくわえてニヒルに笑っているし,ライブでも一服しながらギターをかきならしている。
キース・リチャーズが,隠れるように煙草を吸わないといけない世の中なんて,どうなのかなあ、,と思ってしまうが,彼のこと。
あまり気にしていないのかも知れないですね。
そうあることを願う。