音楽レビューについてのあれやこれ
買ってからずっと仕事机の上に立てかけていたけれど(装丁が洒落ているからそれはそれで様になる),先日たまたま平日に休みが入ったときに時間ができたので,ようやく読むことができた本がある。
村上春樹の「古くて素敵なクラシック・レコードたち」だ。
私はクラシックにはほとんど造詣がない男だが,小説だけでなくエッセイも含め全ての村上作品を揃える村上主義者(「ハルキスト」ではなく村上氏本人は自らのファンにこう名乗ってほしいらしい)としては,本屋で見かけたら最後,買わずにはいられなかった。
買ったのはいいがクラシックの基礎知識がないので,なかなか読み進めずにいたのだが,じっくり読んでみるとなかなか面白い本だった。
何が面白いかというと,表現が軽妙で実に諧謔に富んでおり,ちょっとした文章書くときに生かせそうだと思ったからだ。
例えば,小説「ねじまき鳥クロニクル」の章タイトルにもなっているロッシーニの「泥棒かささぎ」のレビューは以下のように書かれている。
その点,英国紳士ビーチャムの演奏は肩の力がうまい具合にすっと抜けていて,上品なウィットに富んだ演奏に仕上がっている。なんだか重いコートを脱ぎ捨てて,軽いケープを羽織ったみたいな感じがする。世慣れた親戚の伯父さんの愉快な話を聞いているみたいでもある。
どうでしょう?この書きぶり。
「重いコートを脱ぎ捨てて,軽いケープを羽織ったみたいな」
って,すごいですね。
重いコートを脱ぎ捨てて…。なるほどねえ。
ケープって,あれですか?
結婚式で女性がよく着ている,羽衣みたいなやつですか?
いや,こんな喩えは凡人には考えつきもしない。
「世慣れた親戚の伯父さんの愉快な話」
ですよ。
これは,「親戚の伯父さん」なのがポイントでしょう。
決して,「寡黙な親父の珍しく饒舌な話」ではいけないのでしょう。
近くはないけど遠すぎもしない。
ちょっとした距離感が大切なのですね。
こうして,クラシック・レコードについて綴った彼の手記を読んでいると,例えばディスク・レビューを書くときのヒントが隠されているなあと感じる。
村上氏は難解な楽器の知識をひけらかすことは決してしない。
それよりも,その曲が持つ表情とか性格などが目の前に浮かんでくるような表現を心がけているような気がする。
お気づきの方も多いかと察するが,私も楽器ができないただの音楽好きなので,専門的な知識は皆無に等しい。
だから曲を聴いていて感じたことや考えたことを,自分の体験した出来事や教訓と結び付けて表現するようにしている。
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こうした手法は,「ロッキング・オン」で長く記事を書いてあった松村雄策さんの文章にも強く影響を受けている。
松村さんの文体も独特で,一見何の脈絡もないところから始まって,途中でふらっと主題の曲であったりアーティストが登場してくる感じ。
何というか,さりげないのだ。
でもそこが上手いなと感じるし,非常に味のある文章を書かれるので私はとても好きだ。
松村さんの著作というか,私が好きなのは渋谷陽一氏との対談本「渋松対談」です。
古今東西ロック放談という立ち位置だけど,これ本当に声に出して笑えます。
一応対談本という体を成しているものの,実態は渋谷氏が書く回と松村氏が書く回を順繰りで回しているそう。
つまり,それぞれの発言などはお互いに想像し合って好きに書いていくということ。
それでも違和感なく互いのキャラクター解釈に統一感があるのが素晴らしい。
このセンス,本当に大好き。
渋谷氏=ツェッペリン好き。
松村氏=ビートルズ好き。
単なる「好き」ではなく,お二人とも評論家と呼べるくらいなのだけど,お互いがそのことをネタにいじりあうのが定番になっているのが鉄板の落ちです。
ロックを語り倒す親父たち。
多分身近にいたら少し面倒くさいだろうけど,好きなんだよなあ。
これ読んでいたら「ためになる」とか学びがあるとか,そういうのは多分そんなにないのだろうけど(渋谷さん松村さんごめんなさい笑),これくらい肩の力を抜いて生きてる人生の先輩たちの様子を垣間見るのも,たまにはいいのかなと思う。
いや,多分渋谷氏も松村氏も本当はすごくご多忙な身であることは想像できるが,それを微塵にも感じさせない,暇なロック好々爺像を見事に描き出しているところが秀逸です。
ぼちぼちで,今週残り2日,がんばりましょう。