時代は変わる,小沢健二は変わらない
初めて買ったCDは?
という話題にたまになる。
私の子供時代には,CDのシングル盤といえば,今はなき「8センチシングル」が主流だったので、初めてのCDも8センチだった。
小沢健二の「痛快ウキウキ通り」。
タイトル通り高揚感あふれるナンバーだが,オザケンのカジュアルな歌声に,地方の田園地帯に住む小4ながら都会の匂いを感じたものだ。
だって歌い出しが,
♪プラダの靴が欲しいの
そんな君の願いを叶えるため
なんだもの。
今になって読み返してみると,プラダの靴をねだるなんて,どんな女やねん!と突っ込みを入れたくなるが,田舎の少年にとっては果てしない都会の,大人の,憧れのストーリーだった。
まあ,小学生だからフリッパーズが渋谷系の先駆者とかそんなことも知らないわけだし,それ以外のオザケンの曲も聴くことなく(「カローラツーに乗って」はCMでガンガンかかってたけど),少年は大人になったのです。
で,大人になってみて,「ロッキン・オン」の編集長山崎洋一郎の手記「激刊!山﨑」の単行本を読んでいたら,小沢健二のアルバム「LIFE」をえらく推している。
オザケンと言えば,小さい頃に少しシングルを聴いたこともあるけど,ロックの人からも評価が高いのか,と意外に思って,さっそく買って来て聴いてみると,まあぶっ飛んだ。
これが凄まじいポップアルバムでした。
最初から最後まで捨て曲一切なし。
「ラブリー」,「今夜はブギーバック」などのシングル曲が素晴らしいのは言うまでもないが,
スタートを飾る「愛し愛されて生きるのさ」の躍動感,
「いちょう並木のセレナーデ」で歌われる秋の情景,
「僕らが旅に出る理由」の圧倒的肯定感とちょっぴりの切なさ。
脇を固める曲がまた名曲揃い。
これほどに高純度に結晶化されたポップアルバムにはめったにお目にかかれない。
思えば,「小沢健二」のようなポップアイコンは,それまでの日本にはいなかったのではないだろうか。
藤井フミヤとはちょっと違う。
忌野清志郎とも違う。
氷室京介とも違う。
お洒落で格好いいんだけど,色白で少しひ弱な印象で,近所のお兄ちゃんみたいな親しみやすさがあって。でも物凄くポップセンスがあって。
今では,星野源が近いかな。
そんなオザケンも,当時(2000年代後半あたり)は表舞台から姿を消していて,すっかり過去の人になっていたわけです。
それからまた年月が経ち,2017年の春先。
ある金曜の夜に,何となしにMステをつけて眺めていたら,出演者の中に,見覚えのある顔があるじゃないか。
目尻のシワが少し深くなったが,おろした前髪はそのままに,それはまぎれもなくあの男だった。
タモリさんから「小沢くん,久しぶり」と声をかけられて,はにかんだ笑顔は昔のまま。
そして,エレキギターを抱えて歌い出した瞬間,あまりにもオザケンのまんまだったので,笑ってしまった。
その曲は,「ラブリー」でもなく,「ブギーバック」でもない。
新曲「流動体について」なのだ。
ある老舗人気店のラーメン店の店主が,
「ずっと変わらない味を保ち続ける秘密はどんなところにあるんですか?」
と問われ,こう答えたらしい。
「味は時代の変化に合わせて少しずつ変えている。常連さんにも昔から変わってないように思ってもらえる程度に変えるのが難しいんだ。」
小沢健二の「流動体について」を聴いた時,この話を思い出した。
私は昔からオザケンの曲を聴いてきたが,新曲もまた,まぎれもなくオザケンらしい曲だ。
しかし,オザケンにしか作れない曲である一方で,次から次へと畳みかけるような疾走感からは,「今」だからできた曲であろうことも感じられた。
若さはなくなったけど,ポップセンスは錆び付いてはいない。
むしろ,研ぎ澄まされている。
時代は変わる,小沢健二は変わらない。
でも,変わらないように見せて,確実に変化し続けている。
彼の「次」が楽しみでならない。