21世紀の「ラジオスターの悲劇」
先日,夕方の情報番組を何ともなしに見ていたら,一風変わった始業式のことを報じていた。
不登校の子どもたちが,アバターとして自宅のPCからバーチャル登校するという取り組みだ。
RPGのゲームのような画面上で,自身のアバターを操作して「登校」し,授業に「参加」するというものだ。
学校に行けない子どもにはそれぞれの事情がある。
だから,子を持つ親の立場としても,どんな形であれ「登校」してくれることは喜ばしいことだろうと想像もできる。
情報番組の司会者やコメンテーターも,不登校の子どもを救う新たなテクノロジーであるというようなコメントをしていた。
しかし,私はこのくだりを見ている間じゅう,何とも言えない違和感のようなものを感じ続けていた。
本当に,「これ」を子どもたちに提供して,それで「よかった」で片付けるべきなのだろうか。
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ちょうど,その時読んでいた本に,こんな問題と関わるような内容が書かれていたように記憶していた私は,再びその本を開いてみた。
最近買った養老孟司さんの新書「子どもが心配」だ。
養老さんが,子どもの教育について四人の識者と語り合う対談形式で構成されている本だ。
その中でも,特に気になったのが慶応大学医学部教授・高橋孝雄氏との対談だ。
高橋氏は小児科が専門である。
いまや多くの方々がSNSなどを介して,無数の人びととバーチャル空間でつながっています。そして,コミュニケーションがとれていると「錯覚」している。
しかし,オンライン上のコミュニケーションは対面とは異なり,五感のすべてを用いているわけではありません。バーチャル空間の映像の相手に使っているのは視覚と聴覚,あとはチャットなどの場面でキーを打つ時に感じる指先の触覚といったところでしょうか。
実体験としてのコミュニケーションは,脳細胞が形成するネットワークに広く五感が働きかけるものですよね?
一方のネット上のコミュニケーションは,特化した感覚が脳細胞そのものを直で刺激するようなものではないか。だとしたらバーチャル空間では,人間の閾値を超えるような強い刺激が脳細胞に伝わっていることになります。これは生物学的に見ても異常な状態で,うすら寒い心持ちすら覚えます。
高橋氏が話すように,実体験としてのコミュニケーションは五感に働きかけるもの。
それは,「ヒト」以外のものと関わるときでもそうだ。
例えば,うちの長男は大の昆虫好きだ。
夏休みなどはよくセミを捕まえに外に繰り出した。
ジージーとうるさく鳴くセミを頭上に見つけ,虫取り網を構える。
捕獲に失敗すると,顔にオシッコをかけられることもある。
うまく捕まえても,ジイジイと抵抗するセミを網から取り出し,虫かごに移さねばならない。
セミをつまむと,「ギ・ギ・ギー」と抗うので,両目の横を手でつまんで持つ。
鳴くたびにセミの体は振動し,手足を忙しなく動かし抵抗する。
虫かごに移す途中,その鋭い脚で引っかかれて「痛っ!」と思わず放してしまうこともある。
そんな体験も,外に出て実際にセミと触れ合わなければ当然できない。
NHK for Schoolに「ものすごい図鑑」というのがあって,虫の体をくまなく観察でき,自由自在に拡大縮小することもできるという,本当にすごい機能だ。
そこで発見できることもあるだろうし,知識だけならしこで身につくかもしれない。
それでも,やはり実体験でしか得られないものはある。
先述の高橋氏はこうも語っている。
私はやはり,子どもにとって本当の意味で良い環境とは,何不自由のない暮らしをさせることではなく,適度なストレスがある状態だと思います。いろんな種類の適度なストレスが子どもに働きかけることで,心と体はどんどん育っていくのです。リアルな営みを本気で体験しているときは,まさしく適度な負荷がかかっている。現実世界は,ゲームのように一瞬にして不可能が可能になることはまずありませんが,その分,ささいな何かを成し遂げることでも大きな充実感や達成感を得られるものです。
コロナ禍が長引き,学校現場ではタブレット端末を使ったオンライン授業が日常的に行われるようになった。
ところで,濃厚接触者だけでなくコロナ感染不安による希望者はオンライン授業を受けることができ,しかもそれは欠席にはならないことはご存知だろうか。
感染不安は仕方がない。誰だってコロナになりたくない。
私だって罹った。あんなキツい思いはしたくない。
不安ならオンライン授業を受ければいいと思う。
しかし一方で,以前よりも「学校に行かないこと」に対する抵抗感がなくなっていることは確かだ。
通常登校でもオンライン登校でも同じ「出席」扱いなら,それも仕方ないだろう。
おかげで,子どもたちの「ストレス耐性」は確かに下がっている。
コロナ以降,不登校児童数は明らかに増えてきている。
報告がなされたわけではないが,原因の一つに「オンライン授業」があることはおそらく間違いない。
コロナ禍でも教育を止めないための「オンライン授業」が実は諸刃の刃であることを,GIGAスクール構想を掲げる文科省も教育現場も一度立ち止まって検証する時期にきているのではないだろうか。
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学校現場が課題に溢れていることは,誰の目にも明らかだ。
学校にはいろんな子どもがいるし,いろんな大人(教師)もいる。
いろんな人がいるから,自分の思い通りにいかないことも沢山あるだろう。
嫌な目に遭うことだってあるだろう。
でも,そもそも「社会」ってそんなものじゃないか。
子どもたちの前に立ちはだかる障害を片っ端から取り除いていくことが,本当に彼らのためになることなのだろうか。
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私に読書の素晴らしさを教えてくれたのは小学校三年生の時の担任の先生だった。
先生との出会いがなかったら,私は文章を書くことの面白さにも気づかなかっただろうし,今ここでブログの記事を書くこともなかっただろう。
その先生は,ある日の国語の授業で自らの一挙手一投足を,私たちに文章に書かせたことがある。
先生がそろりと教室の戸を開け,私たちをぐるりと見渡し,右足から教室へ一歩踏み出してくる。
一歩,二歩,歩を進め,教卓の前にくると,「すーっ」と深呼吸を一つ。
教卓に両手をついた。
校庭側から中央,廊下側の順に私たちを見渡し,椅子を引いて座った。
椅子を引くときに「ギッ」と乾いた音がした。
この一連の動作や音,息遣いまで「観察」して,文章を書かせるのだ。
その場の空気を捉えるような感覚が新鮮で,私はその授業のことをよく覚えている。
そんな授業がオンラインでできるだろうか。
どんなに技術が進歩しても,所詮は「代替品」でしかない。
現場でしか吸えない空気,見えない景色,得られない体験は間違いなく存在するのだ。
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私がこの問題について考えるとき,よく頭の中で流れているのがバグルスの「ラジオスターの悲劇」だ。
MTVに出番を奪われたラジオDJについて皮肉たっぷりに歌った1980年の曲だが,本質的には似たようなことを歌っているような気がする。
Pictures came and broke your heart.
(映像がやってきて君の心を壊した)
子どもが心配。
でも,彼らのネット社会との関わり方を決めるのは,私たち大人だ。
これは,私たちの問題なのだ。