あのころ,ドーナツと。
土曜日には,子どもたちをプールに送った後の「黄金の1時間」がある。
最近はケンタッキーに行ってチキンとコーヒーを注文して本を読むことが多いのだけど,昨日はプリンターのインクが切れていたので,隣のイオンに買い出しに行った。
ついでに行きつけのCD屋で小澤征爾さんが指揮をしているサイトウ・キネンオーケストラのCDを。
本屋に行ったら,ブルータスが村上春樹特集を組んでいたので思わず買ってしまった。
村上春樹がダンキンドーナツが好きなのはわりと知られているが,今回のインタビューでもドーナツ愛について語っていた。
村上 ダンキンドーナツは,ドーナツとダンキンのまずいコーヒーを一緒に飲んで食べるのがいいんです。
ー何ですか,そのドグマみたいな。
村上 うん。そのまずいコーヒーが不思議と合うんです。ドーナツとね。ハーヴァードの大学生の集まるところで映画を観た時に,たまたまね,スターバックスとダンキンが出てきたんです。するとね,スターバックスではみんなブーイングなんです。でも,ダンキンが出てくるとウワーッと拍手する。それくらいニューイングランドのダンキンドーナツ愛っていうのはすごいんですよ。
コーヒーとドーナツ。
このくだりを読んで,私の記憶の扉が一つ開けられた。
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私が社会人になってすぐに借りた賃貸マンションは,福岡の中心地・天神と学生の街・西新の中間地点あたりにあった。
西日の当たる7階の,6畳一間。
大通りから路地に入ってすぐの交通の便のよい場所で,通りの反対側には商店街もあった。
自転車を5分走らせれば,自然豊かな大濠公園がある。
ここは,福岡城の西側にあった巨大な堀,「大堀」周辺を再開発して造られた県営公園だ。
福岡に住んでいると,天気ニュースなどでよく映るので,知っている人も多いだろう。
このミスタードーナツは1970年代からある老舗で,店内に小型のメリーゴーランドがある珍しい店舗だ。
私は一人暮らしを始めて間もない頃,毎週のようにこのミスタードーナツに足を運んだ。
訪れるのはいつも土曜日。
前の日が金曜日なので,大抵深酒していた。
二日酔いで8時前に目が覚め,歯磨きと着替えを済ませると,仕事道具をバッグに詰め込み,自転車に飛び乗る。
注文するのは決まって,オールドファッションとフレンチクルーラー,あとはミルクを入れたホットコーヒー。
あの頃はまだ店内で煙草が吸えたので,ドーナツを食べた後はたまにコーヒーに口をつけながら一服していた。
店内は吹き抜けになっていて,陽の光がよく入ってきていた。
朝日を鈍く反射させたメリーゴーランドの光を横目に,読書に耽る時間はなかなか贅沢なものだった。
1時間くらいゆっくりしたら,支払いを済ませてそのまま隣の大濠公園へ。
お堀沿いにはベンチがあり,そこに座って再び煙草に火を点ける。
この頃吸っていたのは,ラッキー・ストライクのメンソールだ。
休日出勤前の一服。
水面をぼんやり眺めながら煙を吐き出していると,対岸からサックスの音が聴こえてくることがあった。
誰かが,サックスの練習をしているのだった。
たどたどしい音だったが,それも何処か郷愁を誘うところがあって,その情景と音は,春の柔らかな風と薄い空の色とともに記憶の底に沈んでいた。
私の,ドーナツにまつわる記憶の断片だ。
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昔読んだ,さくらももこさんのエッセイに,ミスタードーナツの話があった。
お姉さんがミスタードーナツでバイトを始めて,一時期毎晩のように,お姉さんが持ち帰る廃棄予定のドーナツを食べていたそうだが,そのおかげで10年はミスタードーナツを食べる気がしなかったと書いてあった。
実は私も,毎週のミスド通いをニ年ほど続けた後,徐々に足が遠のき,しまいには通うことはなくなった。
多分,あの時期に一生分のドーナツを食べたのだろう。
あれから15年近く経つが,今でもミスタードーナツに積極的に行こうとは思わない。
それでも,たまにお店の前を通った時に漂ってくる,芳醇な香りには惹かれますね。
それと,達郎さんのあの曲なんかが流れてくるとね,また食べたくなるんです。