音楽と服

音楽と服について好き勝手に語ります

YMOの「人民服」が私たちに語りかけること

今月の「メンズ・ファッジ」をパラパラとめくっていると,「カルチャー」のページに紹介されている本に目が留まった。

 

その本のタイトルは,「音楽とファッション」。

まさしく,当ブログ「音楽と服」のためにあるような本ではないか。

 

私はすぐにスマホを取り出し,Amazonで検索をかけてみると,今年の7月末に出たばかりの新刊だった。

迷わず「購入」をクリックする。

 

そうして昨日,その本は我が家に届けられた。

 

「はじめに」には,筆者の青野氏が若い頃からYMOの音楽に入れ込み,とりわけ高橋幸宏からの影響が大きいこと。

そこから音楽とファッションについての興味が広がっていったことが書かれていた。

 

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高橋幸宏というと,言わずと知れたYMOのメンバーであり,先頃ラストアルバムをリリースしたメタファイヴの中心人物でもあるが,その肩書きに「ファッション・デザイナー」があるくらい,ファッションにも造詣が深い人物だ。

 

そして,YMOのファッションといえば,最も知られているのは「人民服」ではないだろうか。

 

彼らの出世作となった「ソリッド・ステイト・サバイバー」のジャケットでメンバーが着ているあの赤い服だ。

 

この「人民服」は実は本当の人民服ではなく,古いスキーウェアがモチーフになっているそうだ。

デザインしたのは,勿論先述の高橋幸宏

 

YMOのビジュアル戦略

まだ世界的ブレイク前夜のYMOについて,細野晴臣は次のように語っていたそうだ。

 

「ヴィジュアルは,外国人の日本人に対する典型的なイメージーフジヤマゲイシャ的な,時折ハリウッド映画でもそういうのがあったりするけどー,それを逆手に取ったものでいく」

 

人民服を着てコンセプチュアルに行われた欧州ツアーから人気に火が点き,逆輸入的な現象で日本でもブレイクしたYMO

 

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アルバム「増殖」(1980)に収録されている「スネークマン・ショー」を聴いていても,確かに外国人から見た日本人のイメージをうまく利用して,シニカルかつシュールな笑いを見事に音楽と融合させている。

 

例えば,「若手音楽家と80年代ロックシーンを考える」というテーマでの対談では,若手音楽家の面々が自身の立場と実績を基にロックの在り方について討論し合っている。

 

こんな感じだ。

 

「一日に8時間ロックを聴きまくって生活している。そんな生活をしてみて思うのは…」

「レコード5万枚持っていて,しかもLPのロックばっかり…」

「僕なんて8万枚ですよ。それを毎日聴きまくってる。そんな僕に言わせると…」

「ロックを理解するには,ファッションと切り離せない。僕は今シルバーのロンドンブーツを履いている。ロンドンブーツ10足くらい持ってますよ。だから,そういうふうに生活にロックを取り入れることから考えると…」

「今度レコードのプロデュースやる。しかもニューウェーブよ。そうして実際にロックをつくってみて思うのは…」

 

こんな彼らが最後に使う決め台詞は全て同じだ。

 

「ロックには,いいものもある。悪いものもある。」

 

互いに「君とはちょっと違うんだけどね」と牽制し合いながら,結局は皆同じことを言って話が平行線で終わるという,何ともシュールな展開。

 

見てくればかりを重視して,本質を理解しようとしない当時の音楽業界を風刺していると取れなくもない。

 

ただ,それを全面に押し出すわけではない。

 

実はこの対談中,小声でYMOを推す人物がいる。

 

「僕はYMOがいいと思…」

「僕も,やっぱりYMO…」

「やっぱりファッションなら人民服…」

 

しかし,彼の声はいつも他の誰かに途中でかき消され,最後まで聞くことはできない。

このように自虐ネタを織り交ぜつつ,クスっと笑えるような小品になっているのは,彼らの秀逸なバランス感覚の証ではなかろうか。

 

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細野が語っていたように,YMOには当初からある程度明確なビジュアル戦略があった。

 

それが奏功したのは,当時の世界的視座から,日本人がどのように見られていたのか,そこで自分たちをどのように売り出していくのか,ある意味冷徹に考えていくプロセスがあったからだろう。

 

だからこそ,彼らの作品は時代性を内包しつつ,一定の普遍性をもつものになった。

 

YMO「PUBLIC PRESSURE」ブックレットより


www.youtube.com

 

 

ビジュアル戦略のその先~妄想と余白~

YMOが当初から日本を飛び越して,世界(とりわけ欧州)での成功を目論んでいたのは,彼らのビジュアル戦略からすると自然な成り行きであったのだろう。

 

ところで,高橋幸宏がデザインした「人民服」が日本の聴衆にどのように受け入れられていったのか。

またその時代背景について,「音楽とファッション」では以下のように綴られている。

 

一般に,情報からの距離(文字どおりの距離だけでなくタイムラグも含む)が離れれば離れるほど,オリジナル情報は歪んだり誇張されて届く。いまのようにインターネットがなかった時代,メディアの情報を受け手が独自に想像(妄想)を働かせて解釈し,口コミで他者に伝えるといったことは当たり前に行われていたわけで,そこから生じる誤解もまた情報とともに伝えられていた。ところが,ことカルチャーにおいてはそうした情報の歪みがや誇張が思いがけず新たな事象への興味や出合いをもたらすこともあるのは,実に面白いところでもある。たとえば,YMOの赤い「人民服」ー繰り返すが,日本の古いスキーウェアがアイデア・ソースであるーは,人民服と誤解されたがゆえ,そこから中国への興味を促し,キッチュな中国雑貨の魅力を知らしめることとなった。

現代では,誤解を生むような表現は避けられる傾向にあり,それはそれで現代の「正しさ」だと思う。その一方で,わかりやすさが前面に出た表現ばかりになってしまうのはなんだか貧しいように感じてしまうのも正直なところだ。受け手が想像し妄想する余白は,いまやアートが特権的に持ち合わせるものとなっているが,ポピュラー・カルチャーのなかにその可能性を注意深く潜ませる表現が生まれてきはしないだろうか,と考えてしまった。

青野賢一「音楽とファッション~6つの現代的視点~」RittorMusic

 

なかなか興味深い考察である。

 

情報の拡散スピードが当時(1980年代)と雲泥の差である現代では,「誤解」は命取りになり兼ねない。

自然,「伝え方」は分かりやすく無難なものになっていくのだ。

 

だけど,ポピュラー・カルチャーにも「妄想する余白」は必要じゃないかい?と言っているわけだ。

 

情報化社会は,確かに人間に一層の繁栄をもたらした。

インターネット上には有象無象の輩が集まり,影響力のある者の発信に一喜一憂し,「よからぬ発信」と見なされれば集中砲火を浴びる(それを人々は「炎上」と呼ぶ)。

 

情報化社会によって,世界が広がったと我々は思っているが,ひょっとすると,その「余白」から生まれる「想像力」を搾取されているのかもしれない。

 

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メタファイヴのラストアルバムに「ザ・ホーンテッド」という曲が収録されている。

 

この曲には,英詞ではあるがこんな歌詞がある。

 

打ってはよける 防弾,無敵

そうやって王座を勝ち取るんだ

堕落させて レースで勝って

そうやって独りっきりの人生を歩むがいい

 

当て逃げ それでおしまい

そうやって全ての争いは片付く

勝手に分割して 切り離して

そうやって君の逃亡生活が始まる

 

「ザ・ホーンテッド」(和訳)

 

この歌詞の意味をどう解釈するかはリスナーに委ねられている。

 

私には,「余白」がなくなった現代のインターネット社会の闇について告発しているように思えてならない。

 

YMOの「人民服」は時代を越えて,我々に「表現すること」の本質とは何であるのか?という問いを突き付けている。