妻の誕生祝いに九響のニュー・イヤーコンサートに行ってきた話
九州交響楽団(九響)のニューイヤーコンサートに行ってきた。
クラシックには殆ど縁のない私が,なぜ九響のコンサートに行くことになったのかと言うと,話は1月2日まで遡る。
うちの妻は1月に入ってすぐ誕生日がくるので,昨年も妻の誕生日に向けて「歌うたいのバラッド」の練習をしていた息子の記事を書いていた。
今年の正月に,妻に
「誕生日のプレゼントは何がほしいの?」
と聞いてみると,
「時間がほしい。」
という答えが返ってきた。
男の子が三人いて,共働きの夫婦なので普段は自分たちの時間など皆無に等しい。
だからその気持ちはとても分かるのだが,ではどんな時間がほしいのだろうか?
答えを出すのに,そう時間はかからなかった。
コンサートに行こう。
できれば,クラシックがいい。
妻は幼い頃からピアノをやっていたこともあり,数年前に地域の楽団による小規模のコンサートに行った時も喜んでいたことを覚えていたからだ。
早速「N響」で検索をかけてみる。
NHK交響楽団は,1月9日にニュー・イヤーコンサートをやるようだ。
しかし,場所が長野県上田市…。
これは,無理である。
さすがに三人の息子を連れてこのタイミング(年明け)で長野旅行をブッキングをするのは厳しい。
次に,「九響」で検索をかける。
福岡を拠点に活動する九州交響楽団も,ニュー・イヤーをやっているはずだ。
予想通り,やるようだ。
しかも,場所はアクロス福岡シンフォニーホール。
ここなら車で都市高速に乗れば20分程度で行ける。
チケットを確認すると,S席が15席程度残っていた。
しかし,連番での空きは残り3つほどしかない。
しかも,私がスマホでいろいろと下調べをしている最中にも,席が少しずつ埋まり始めていた。
すぐに義理の母に電話をし,8日午後の子守を打診してみた。
義理の父母ははす向かいのマンションに住んでおり,普段から何かと世話になっている。
男の子3人の世話をお願いするのは心苦しかったが,事情を説明すると快諾してくれた。
義母に礼を言い,電話を切るとすぐにチケットを取った。
S席の15列目。
滑り込みで取った割には,なかなかの上席だ。
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8日(日)の昼過ぎ,義理の父母が訪ねてきてくれた。
子どもたちは午前中公園で遊ばせたものの,昼ご飯を食べた後も絶好調である。
そんなちびっこ・ギャングを3人置いていくのに多少の心苦しさを残しつつ,義父母と子どもたちに笑顔で見送られ,自宅を後にした。
思えば妻と二人で外出は久しぶりである。
先日たまたま二人とも休みの時には下二人を保育園に預け,冬休み中の長男を連れて買い出しに出かけたことはあったが,二人きりとなると一年ぶり以上であることは多分間違いない。
車のエンジンを入れると,スピッツがよりにもよって「おっぱい」を歌っていた。
これから妻と二人でクラシックのコンサートに出かけるのに,これはないだろう。
そんな私の心情をあざ笑うかのように,草野マサムネは
「きみのおっぱいは世界一~」
と歌っている。
妻と他愛もない会話をしながら,できるだけ自然な動作で別の曲に切り替える。
都市高速に乗ると,15分ほどで天神に着いた。
高速を降りる時には,草野は「さすらい」(奥田民生のカバー)を歌っていた。
なかなかいい感じだ。
アクロスの駐車場に停めることも考えたが,出庫の際に手間取りそうだったので,少し距離はあるが大通りの裏にあるパーキングに停めて歩くことにした。
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アクロス福岡までの道を妻と歩きながら,ちょっと行かないうちに天神の街が様変りしていることに驚いた。
天神のメインストリートである渡邊通り沿いに建つ,ランドマーク的な建物だった天神コアとビブレの場所は,閉店に伴い今では更地となっていた。
現在福岡市の中心部・天神では「天神ビッグバン」という名で再開発が進められている。
おそらく数年後には,新たな天神のランドマークが完成し,町の様相は一変することであろう。
しかし,大学時代から20代にかけて,毎週のように服や本・CDを買いに来たり,飲み歩いたりした街の景観が変わっていくことには,一抹の寂しさを覚えることも確かだ。
少しセンチメンタルな気持ちになりながらも,10分ほど歩いてアクロス福岡に到着した。
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さすがはニュー・イヤーコンサート。
シンフォニーホールのロビー周辺には既に人だかりができていた。
家族連れもちらほら見かけるが,やはり年配のご夫婦が多い。
地元の交響楽団ではあるが,クラシックのコンサートなので着物やジャケットでぴしっと決めた方が多い。
ちなみに私も,この日の格好はいろいろと逡巡した。
前日(7日)にウィーン・フィルのコンサートをNHKでやっていたので観ていると,オーディエンスの男性は揃いも揃ってネイビースーツにネクタイの正装,女性は華やかなドレス姿である。
さすがに日本の地方都市のコンサートなので,そこまで気合を入れるのもどうかとは思ったが,それなりに場をわきまえた格好はしていくべきだ。
迷った末に,ラルフローレンのネイビーのジャケット,グレイのスラックスに,ユニクロの3Dクルーネック・セーター(おうど色),ラルフのチェックシャツを合わせた所謂「アメトラ」スタイルにした。
足元はハルタのタッセルローファー。
妻は先日買ったMHL.のニットにアダム・エ・ロペのロングスカートを着ていた。
だいぶカジュアルだな。
ホールに入ったら,数人のチェロ奏者の方がチューニングをしていた。
ここのホールは,なかなか重厚な造りをしている。
昨年10月,リニューアル工事を終えて記念式典を行ったばかりである。
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定刻になると,ぱらばらとした拍手の中オーケストラの面々がそれぞれの持ち場につく。
最後に,一際大きな拍手を浴びながら,指揮者・下野竜也が指揮台に上がった。
スタートは,ウォルトン「『スピット・ファイア』前奏曲とフーガ」である。
のっけから,スペクタクルな演奏であった。
クラシックに詳しくない私にとっては勿論初めて聴く曲であったが,メリハリの効いた音の出し入れが素晴らしい。
席が右寄りだったので,ステージ向かって右側のチェロ隊の重低音がよく聴こえてきたのもよかった。
パッヘルベルの「カノン」では,春の陽光に照らされた水面と,小川のせせらぎが聴こえてきた。
抑制のきいたバイオリンの音色とフルートの調べが心地よい。
ソプラノ歌手の鈴木玲奈と九響合唱団が参加した,ヨハン・シュトラウス二世の喜歌劇「侯爵様,あなたの様なお方は」も見事であった。
侯爵家の女中が,ある日仕えていた貴婦人のドレスを拝借し,こっそり舞踏会に参加したところ,あろうことか会場で侯爵に出くわしてしまう。
「お前はうちの女中ではないか」
と驚く侯爵に対して
「侯爵様,このように美しい私のどこを見て『女中』と言われるのですか?」
と侯爵を言い負かすという喜歌劇(鈴木の解説による)。
優雅な女中の高笑いがメインになるという,痛快な喜歌劇だった。
そのエレガントさに拍車をかけたのが,九響合唱団のコーラスだ。
70人規模のオーケストラと,コーラス隊約40人,計100人以上の音と声で迫ってくる迫力はかなりのものだった。
今回の九響ニュー・イヤーコンサートは,私の数少ないクラシックコンサート体験の中でも間違いなくベストとなった。
広島交響楽団から招かれた,下野竜也の素晴らしい指揮と人柄に触れないわけにはいかないだろう。
今回,パンフレットに曲の解説がなかったので,彼は
「私がやります。」
と宣言し,曲間にMCを挟んでいった。
その喋りが,ウィットの効いた上品なジョークを交えつつ,クスっと笑えるようなものだったので,会場はほんわか温かな雰囲気に包まれた。
曲になると,鳥のささやき声のような優しい調べを引き出したかと思えば,船の出航のような勇壮なファンファーレを躍動感たっぷりの動きでリードした。
アンコール第一幕で「ロミオとジュリエット」を演った後,再度のアンコールに応えた第二幕「剣の舞」では,サングラスをかけた鈴木と一緒にポンポンを振って指揮そっちのけで踊り狂い,割れんばかりの拍手の中でのフィナーレとなった。
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コンサートが終わった後,車を停めているパーキングまで歩きながら妻と話していると,
「さっとラーメン食べて帰りたい。」
と言い出したので,結婚前によく二人で通っていた長浜の老舗「一心亭」に寄って帰ることにした。
あっさり風味の豚骨スープに,長浜ラーメン特有の細麺。
この店は年中おでんをやっていて,しかも焼酎が安いので,飲んだ後に締めでよく訪れていた。
さすがにこの日は酒は飲めなかったが,懐かしい味がじんわりと体を温めてくれる。
変わりゆく街の中でも,変わらないものがあるというのは,嬉しいことだ。
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土産を買って帰宅すると,息子たちは義父母に夕食を食べさせてもらっていた。
居間には,トランプがきちんと並べて置いてある。
私たちが出かけている間,みんなで神経衰弱をやっていたらしい。
2歳の三男はなかなか寝付かず,夕方4時過ぎにようやく午睡に入り,ついさっき起きたばかりということだった。
寝ぼけ眼のまま,義母が口に入れてくれるハヤシライスをむしゃむしゃと頬張っている。
孫たち三人の世話は大変だったことだろう。
義父母に礼を言い,夕食の世話を交代し,買っていた土産のパンを渡した。
義父母が帰った後,長男と次男が
「ご飯食べたらみんなで神経衰弱をやろう!」
と言い出した。
いいだろう。
まだ騒がしい日常に戻っていくが,たまの非日常が明日からの活力になる。
妻の誕生祝いとは言え,私自身も結構癒されていた。
機会があれば,また行ってみたいと思えるような得難い体験であった。
とは言え,この息子たちを連れて,クラシックのコンサートに行ける日が果たして来るのだろうか…とつい遠い目をしてしまった,とある休日の夜なのでした。
古くて素敵なクラシック・ロック〜フェイセズ〜
ひょんな思い付きから始めた,「古くて素敵なクラシック・ロック」シリーズ。
第二回は,フェイセズ(Faces)です。
よく,スモール・フェイセズ(Small Faces)と間違えられるフェイセズだけど,この2組のバンドは深く関係している。
スモール・フェイセズは1965年から69年まで活動した英国のロック・バンドで,スティーブ・マリオット(g)とロニー・レイン(b)が中心となって人気を博した。
しかし,中心人物のスティーブが別バンドを結成するために脱退したため,残されたロニーやイアン・マクレガン(k)らは,ジェフ・ベック・グループをクビになってフラフラしていた友人のロン・ウッド,ロッド・スチュワートをバンドに誘い,フェイセズを結成した。
ロン・ウッドは,今や泣く子も黙る世界最高峰のロックン・ロールバンド,ザ・ローリング・ストーンズのギタリストとして名を馳せている。
ロッド・スチュワートは,ソロ・シンガーとして「セイリング」「今夜きめよう」等多数のヒットを放ち,そのハスキー・ボイスとセクシーな佇まいに魅了された人はここ日本でも多いのではないだろうか。
つまり,スモール・フェイセズとジェフ・ベック・グループの元メンバーが手を組んだ,所謂スーパー・バンド的な見方もできるのがフェイセズというバンドの成り立ちだ。
フェイセズの活動期間は,決して長くはない。
1970年に最初のアルバムをリリースし,1973年に最後のスタジオ・アルバムをリリース後,ロニー・レインが脱退。
その後も残ったメンバーで細々と活動を続けるが,70年代半ばにロン・ウッドがストーンズのレコーディングやツアーに帯同するようになって,遂に解散の道を選ぶ。
スタジオ・アルバムとしては4枚を残しているが,今回は我が家にある2作目から4作目までを紹介する。
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「Long Player」(1971)
このアルバムは,レコードジャケットを忠実に再現した,紙ジャケ仕様の再発盤CDを10年以上前に買っていたのだけど,実はほとんど聴いていなかった。
というのも,先に購入していた他2枚(「馬の耳に念仏」と「Ooh La La」)のクオリティに対して,聴いてみた印象が「ちょっと地味だな」というものだったからだ。
だから,2,3回聴いてずっとCD棚に入れっぱなしにしていた。
ところが今回10年ぶりに聴き返してみると,思いのほかよかった。
確かに,グルーヴ感やダイナミズムという点では後に出た2作の方に分があるが,素朴ではあるものの曲の骨格はしっかりしていて,ロッドの歌声もしっかりとそこに乗っかっている。
B面は特に聴かせる。
「リアル・グッド・タイム」なんかは,ロッドのシャウトと,うねるロンのギターが絡み合い,なかなかの迫力だ。
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「馬の耳に念仏」(1971)
私が最初に買ったフェイセズのCDがこれだ。
何故買ったのかはいまいち思い出せないが,多分2011年フジロックのヘッドライナーに再結成フェイセズの名前がクレジットされていたため,CDを聴いて予習してみようと思ったからではないだろうか。
正直そんなに期待していなかったが,このアルバムはなかなか聴き応えがあった。
全体的に気怠げなトーンが若干の古臭さを感じさせるが,逆にそれが安心感をもたらしてくれる。
かすれ気味のロッドのボーカルもいいのかも知れない。
久しぶりに聴いてみると,アルバム全体の雰囲気がストーンズ「スティッキー・フィンガーズ」あたりに近いものを感じる。
牧歌的な曲調の中にも,ミックのボーカルで少し毒を持たせたのがストーンズなら,枯れた退廃的なイメージのほうがフェイセズだ。
これはこれで,結構味があって私は好きだ。
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「Ooh La La」(1973)
「Ooh La La」は,フェイセズ最後のスタジオ録音アルバムだが,ロック・アルバムの名盤ディスクレビューなどでは軒並み紹介されることが多い作品だ。
世間的な評価はまあ置いておいても,私はかなりこの作品に愛着を持っており,一時期相当聴き込んだ。
一番の聴きどころは,間違いなく2曲目「Cindy Incidentally」だろう。
ピアノ・ソロのイントロからの,ひしゃげたギター,そしてロッドの切ない歌声。
曲を引っ張るのは間違いなくロッドのボーカルだが,要所で鳴らされるイアンのピアノがいい仕事をしている。
フェイセズというバンドは,どうしても華のあるボーカル(ロッド・スチュワート)や退廃的なギター(ロン・ウッド)プレイに目が行きがちだけど,実は彼らが活躍する下地には,ロニー・レインらリズム隊が生み出す,磐石のグルーヴや,アクセントになるイアンのピアノがあるわけだ。
彼らの音楽は,古きよきロックンロールの芳醇な香りに溢れている。
70年代前半,ロックが最高の輝きを放っていた最後の時期に相応しい名盤だ。
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2011年,フジロック2日目のグリーンステージのヘッドライナーはフェイセズだった。
かつてバンドを牽引したロニー・レインは既に他界していて,ベースは元セックス・ピストルズのグレン・マトロックが担った。
マネージメントの折り合いが合わず,ボーカルにはロッド・スチュワートを据えることが出来なかったので,代わりにミック・ハックネル(シンプリー・レッド)が歌った。
グリーンステージは,ヘッドライナーの時間帯とは思えないほど,ガラガラだった。
私は,モッシュピットの少し後ろのぬかるんだ芝生の上に佇んで,彼らのステージを見守っていた。
ミックのボーカルは伸びやかなハイトーンで,フェイセズの楽曲に敬意を払い,余計なアレンジも加えず忠実に再現していた。
何度かセッションを重ねたのだろう。メンバーとの息もよく合っていた。
しかし悲しいかな,ロッドのような枯れた色気は出ていない。
まあ,最初からそこは期待していなかったけど,やはりロッド・スチュワートとロニー・レインというのはフェイセズ特有の退廃的なグルーヴを生み出していたのだなと実感した。
でも,ロン・ウッドを始めとしたメンバーが楽しそうに演奏していて,それを見ているだけで幸福な気持ちになった。
最後に彼らの代表曲,「Cindy Incidentally」を紹介します。
即効性はないけれど,じんわりと沁みる名曲です。
古くて素敵なクラシック・ロック~イギー・ポップ~
村上春樹の「古くて素敵なクラシック・レコードたち」が売れているらしい。
以前,当ブログでも紹介したことがある。
この本,最近になってようやく読了した。
たまに思い出したように手に取り,少しずつ読み進めていた。
村上春樹の部屋にあるクラシック・レコードの紹介が主で,大体1回に4~5枚ずつレコードジャケットとレビューが載っている(計400枚以上のレビューを収録)。
紹介してあるクラシック作品はほとんど知らないものばかりなのだけど,村上氏特有の諧謔やエピソードを交えた小話を聴いているようで,なかなか楽しめる。
この「古くて素敵なクラシック・レコードたち」は,なんと続編が先月半ば頃に出たということで,本屋に買いに行ってきた。
タイトルは「更に,素敵なクラシック・レコードたち」である。
なかなか素敵なネーミング・センスである。
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ところで,この本を読みながら
「こういう企画がロックのCDであればつい読みたくなるだろうな。」
と思った。
例えば,CD棚にある古いクラシック・ロックの紹介だ。
作品の制作背景だけでなく,持ち主のその作品にまつわる個人的な思い出なんかがあれば,尚のこと面白いだろう(そういうの,個人的に好きなんです)。
ないなら,自分でやってみようかな。
思い立ったが吉日,やってみようと思います。
題して,「古くて素敵なクラシック・ロック」シリーズ。
第一回は,イギー・ポップです。
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1970年前後に,伝説的なロック・バンド,ストゥージズのフロントマンとしてカルト的な人気を博し,バンド解散後はソロとして,1977年にデビューアルバム「ザ・イディオット」(写真:左)と2作目「ラスト・フォー・ライフ」(写真:右)を立て続けにリリースする。
今回紹介する2枚だ。
正直に申し上げると,これらのCDを聴くまでは,私のイギー・ポップに対するイメージはあまりよろしくなかった。
「あまり」ではないな。
「すこぶる」よろしくなかった。
理由は簡単で,イギー・ポップという名前に反して,全く見てくれがポップではなかったからである。
私がロックを聴き始めた頃のイギーのいで立ちはというと,ライブに出てくるときには大抵が上半身裸(しかもムキムキ)で,長髪を振り乱していた。
おまけに何やらヘンテコな踊りでクネクネ動き回る,お世辞にも格好いいとは言えないオッサン…。
そんなイメージだった。
思いっきり,見た目で判断していたわけである。
しかし,上で紹介した2枚のCDを聴いて,その認識はちょっと改めた。
変なオッサンであることには変わりないけど,ただ変なだけではない。
その「変」さには,しっかりと説得力があったから。
非凡な2枚である。
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「The Idiot」
イギー・ポップ,ソロとしてのデビュー盤である。
ストゥージズを解散した後のイギーは苦難続きだったそうだ。
薬物中毒からのリハビリ期間でもあったし,周囲からの信頼を失ってもいた。
そんな彼に手を差し伸べたのが,ストゥージズ時代から何かと交流のあった,デヴィッド・ボウイ。
ボウイはアルバムの共同制作を持ちかけ,そんなボウイの全面的な協力を得て完成したのが,この「ザ・イディオット」という作品だ。
ボウイのプロデュース,という制作背景があるからだろうが,1曲目の「シスター・ミッドナイト」のダークサイドな雰囲気は,同時期に制作されたボウイの傑作「ロウ」の世界観に通じるものがある。
宇宙的なスケールの大きさと同時に,どこか宿命的な「業」のようなものを感じさせる曲だ。
さらに,このアルバムには後にボウイが「レッツ・ダンス」でセルフ・カバーする「チャイナ・ガール」という曲も収録されている。
色気を感じさせるような艶やかさのあるボウイ・バージョンと比べると,こちらのイギー・バージョンはのどかなカントリー・ミュージック風のアレンジだ。
アルバム全体の流れとして,悪くはないけど粗さが残るのは否めない。
完成度は,次作の「ラスト・フォー・ライフ」に譲るか。
ただ,この時代のイギー,見てくれはなかなか格好いい。
ファッションを見ていくと,ラペル太めのジャケットの下は何も着ていないのだろうか?
下がタイトなジーンズ,妙な手の動きとともに,印象に残る秀逸なジャケット写真だ。
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「Lust For Life」
私がこの企画を思いついた時に,最初にイギー・ポップを取り上げようと思ったのは,この素晴らしいアルバムを紹介したいと考えたからだ。
このアルバムは傑作だ。
多くの音楽ファンに聴いてもらいたい作品だ。
アルバムのオープナーを飾る表題曲「ラスト・フォー・ライフ」は,映画「トレイン・スポッティング」のオープニングとして有名だが,日本でもよくCMなどで流れている。
その軽快なイントロが鳴り出すと,つい体を動かしたくなる,そんな曲だ。
表題曲だけではない。
6曲目の「サクセス」は,ガレージ・ロック風の曲が多いこの時期のイギーには珍しくメロディアスな曲で,ストーンズよろしく歌い上げている。
このような爽快なロック・ナンバーは,デヴィッド・ボウイにはちょっと出せない雰囲気で,イギー特有の「抜け感」が心地よい曲だ。
全体的にハイ&ロウのバランスが絶妙で,名盤として自信をもってお勧めできる一枚。
最後に紹介するのは,表題曲「ラスト・フォー・ライフ」。
一時期,メール・アドレスに使うくらい好きな曲でした。
元祖「UKのメランコリックで内省的なバンド」ザ・スミスが起こした革命
年末にThe1975についての記事を書いた。
彼らは2013年にデビューしたバンドだが,デビューアルバムを出した後,2作目を出すまでのタイミングでロッキング・オンのインタビューを受けていたので,その記事を読んでいた。
すると,彼らがルーツとする音楽が,マイケル・ジャクソンやフィル・コリンズなど80年代アーティストを中心とするとの記述があった。
The1975の音楽を初めて聴いた時の第一印象が,UKのバンドらしいUKのバンドだなということ。
私が思う「UKらしさ」とは,「メランコリックで内省的な」要素を持っていると言うことだが,The1975はそのど真ん中を行くような雰囲気を感じ取ったのだ。
この「メランコリックで内省的な」雰囲気というのは,2000年代に本格的に洋楽ロックを聴き始めた私にとっては,90年代のブラーやザ・ヴァーブなどのブリット・ポップ期やそれ以前のラーズなどに代表されるようなUKバンドのように,知的で少しウィットがあって,ロンドンの曇り空(行ったことないけど)のような憂鬱さを醸し出しているようなイメージなのだ。
それで,80年代と言えば,そのような「UKのメランコリックで内省的な」バンドの原型が生み出された時代で,その代表格がザ・スミスではないかと思うのだ。
ザ・スミスは1982年にイギリスはマンチェスターで結成されたバンドで,ボーカルのモリッシーが書く詞とギターのジョニー・マーの作るメロディは,オアシスなど多くの後進のロックンロール・バンドに影響を与えたとされる。
スミスというバンドの革新性について触れたライナー・ノーツには以下のような記述があった。
こうして見ると明らかなことがある。それはスミスが救済しようとする弱者とは主に「男性原理的闘争における敗者」を指しているということだ。(中略)
何故ならそれまでのロックが仮に少数派という意味での弱者を解放してきたとしても,その方法は無神経な闘争原理に根ざしている場合がほとんどだったからだ。彼らは有無を言わさぬパワーと自信によってそれを勝ち取ってきたのだった。
しかしスミスはどうだろう。押しつけがましさのまるでないもの悲しいアコースティック・ギター,男性としての自信のかけらも見られぬ酔狂なオカマのごときダンス,そしてステージにばらまかれた数多くの花。あらゆるマッチョイズムは周到に回避され,およそポップ・スターらしからぬ”女の腐ったような”方法ばかりが採用された。そうして「弱者」は闘争によって「強者」へとチェンジすることなく,「弱者」のままで光り輝くという奇跡を成し遂げたのだ。
「ザ・クイーン・イズ・デッド」ライナー・ノーツより引用
ちょっと時代錯誤な表現も交じってはいるが,要するに「男らしさなんて知るか!」と歌ったのがモリッシーなのである。
今ではむしろ性差のことで,決めつけや人格否定をすることがタブー視されるのは当たり前の時代になってきたのだけど,当時(80年代)はまだまだ差別が残っていた。
だから,ザ・スミスのそのような在り方については支持する声も上がった一方で,受け入れがたいとする立場も一定数存在したし,当時は結構物議を醸したようだ。
まあ,アルバムのタイトル(「ザ・クイーン・イズ・デッド」=「女王は死んだ」)自体もかなりセンセーショナルなので無理もないだろう。
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この80年代半ば頃という時代は,ムーブメント自体が「パンク以後」という状況だった。
パンクというムーブメントは,労働者階級という,所謂「社会的弱者」の側に立ったものではあったものの,社会的地位は低くとも,「雄々しさ」や「逞しさ」「反骨精神」などをもった者がヒーローになるという図式はあったのだろうと想像できる。
モリッシーが書く詞には,社会に受け入れられず不満を持つ情けない主人公の心情がリアルに描き出されている。
そのピュアで繊細な内面は,ジョニー・マーが紡ぎ出す流麗なメロディに乗ることで,まるで魔法がかかったようにクリアになるのだ。
心に茨を持つ少年
その嫌悪の影には愛に飢えた心が隠れている
すさまじいまでに愛を渇望する心が
僕の目を深くのぞき込むのに
どうしてみんな信じてくれないんだろう?
僕のことを
僕の言葉を耳にしながら
どうしてみんな信じてくれないんだろう?
ザ・スミス「心に茨を持つ少年」
久しぶりにこの「心に茨を持つ少年」を聴いてみて,震えるほど感動してしまった。
この曲だけでない。
「ザ・クイーン・イズ・デッド」というアルバム全編が,瑞々しいほどの輝きを放っている。
是非一度は手に取って聴いて頂きたい名盤だ。
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ところで,ザ・スミスのファッションについては,あまり語られることがない。
それは,同時代のスタイル・カウンシルほどに洗練されているわけではないし,性的マイノリティとしてポップな曲とルックスで人気を博したカルチャー・クラブのように奇抜な衣装を着ていたわけでもないからだ。
しかし,冒頭で紹介したように「普通の」格好をしていたザ・スミスの面々にはむしろ親近感を覚える。
彼らは別にダサかったわけではない。
現代のファッション感覚から見ても,「普通の」お洒落さんである。
地に足が着いた感じがする。
そして,実はそれが重要だったのではないだろうか。
「普通の」格好をしていても,情けない男のままでも,革命は起こせる。
モリッシーの,スミスのファッションはそんなアティチュードを伝えているようだ。
モリッシーは80年代半ばの「ロッキング・オン」のインタビューに,次のように答えている。
「我々は,ファッショナブルじゃないからね。実際ファッションって何なのか分からない。単純な理屈さー僕らが出てくる前には,誰もこんなふうに感情を露骨に表現する者はいなかった。上着を引き裂いて,誰かの頭の上に飛び乗ろうなんてことは,誰にもできなかったのさ。そして今しばらくは,まだまだこうしたナマの心情表現が必要とされると僕は思うよ。」
「rockin'on」11.1985
このような知性が垣間見えるから,私は彼らの音楽が好きだ。
だからこそ,UKの「メランコリックで内省的な」バンドの元祖と呼びたいのである。
最後に名曲「心に茨を持つ少年」をご紹介。
紅白2022出演アーティストのファッション・チェック
特にここ2,3年は新型コロナの感染拡大による無観客開催が続いたこともあり,NHKも本気で,「どうすれば番組を観てもらえるか?」という積年の課題と向き合っていく姿勢が見受けられた。
そして,その努力はある程度奏功してきたように思える(視聴率云々ではなく,あくまで個人的感想としてだけど)。
ところで,私が「音楽と服」というコンセプトのブログをやっている以上,どうしても気になってしまうのが出演するアーティストの衣装だ。
以前ほどではなくなったにせよ,やはり出演アーティストにとって,紅白というのは一世一代の大舞台であるはずだ。
そんなここ一番ステージで,彼らがどんな服で歌い,自己を表現していたのか,チェックしていきたい。
※画像の引用元は全て2022年NHK紅白歌合戦です。
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1 SEKAI NO OWARI(Fukase)
今年「Habit」で久々のヒットを飛ばし,日本レコード大賞にも輝いた彼ら。
その独特なダンスはSNSでも話題になった。
紅白では「赤」を基調とした衣装でのステージ。
Fukaseの衣装は,ストライプ柄のネクタイに,ストライプのジレ,ストライプシャツにチェック柄のボトムス。
文字にしてみるとうるさい感じだが,濃淡を巧みに使い分けた配色で,そこまでゴチャゴチャした印象はなし。
更に,真っ赤なジャージを着て相殺している。
曲と踊りがポップなだけに,飾りすぎず軽快な衣装だ。
セカオワは,メンバーのSaoriさんの名前をEテレ子供向け番組の作曲などで見かけるようになった。
彼女自身育休明けで復帰間もないが,今後はそうした「親の立場」を生かした音楽活動も増えていくのだろう。
同じく子育てする親世代としても,見守っていきたい今後の彼らの活動です。
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2 back number(清水依与吏)
back numberについては,実はあまり知らない。
ただ私が彼らの楽曲で唯一知っている「高嶺の花子さん」を歌ってくれたのが強く印象に残っている。
愚図愚図した情けない男の心の声をうまく歌詞にしているのだ。
私も学生時代に同じようなことをよく考えていたので,大変共感する。
back numberのメンバーの衣装についても,普段歌番組で見かける時同様,カジュアルで「いつも通り」を貫いている印象。
ボーカルの清水さんの衣装に関しては,大き目トップスに対してタイトなボトムスのシルエット「Yライン」。
サイズ感はともかく,真っ白なワークシャツ,薄いインディゴブルーのデニムという色使いも含め,いにしえのフォーク・シンガーっぽい印象を醸し出していて,非常に好感が持てる。
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3 あいみょん
カジュアルという面では,この人は完全に振り切っている。
「きみはロックを聴かない」を歌唱したあいみょん。
「いつも通り」のジーンズにブーツ,上はオーバーサイズのブルゾンを肘まで捲し上げる,古着っぽいスタイル。
彼女が偉いのは,自分の言葉と自分のスタイルをきちんと持っているということ。
ステージが紅白だろうと路上だろうと,それを変えることはないだろう。
私よりだいぶ年下だが,その一貫したアティチュードは,素直に格好いいなと思える。
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4 藤井風
個人的に2022年ベスト・ドレッサーに選出した藤井風の衣装は一番の注目だった。
出てきた彼を見て驚いた。
スカートである。
もともと中性的な印象もあるし,今回の歌唱曲「しぬのがいいわ」の歌詞も女性になぞらえて歌っているので,曲の世界を表現したということだろう。
まあ男だからスカートはちょっと・・・とか,そんな時代でもないということ。
これがファッションとして成立するには,まだまだ文化として成熟しきっていない感はあるが,昔から(特にイギリスでは)ミック・ジャガーやデヴィッド・ボウイなんかはよく中性的な衣装を身に纏っていた。
ファッションの是非はともかく,曲の世界を完全に演じ切っていた今回のステージ。
表現者としての粋をしっかり見せてくれた。
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5 星野源
星野源は,自身の多様な音楽体験を曲作りに落とし込むことができる,バランス感覚に優れたアーティストだ。
もともとは,コアな音楽的趣味を持っている人なのだと思うが,それをうまくポップ・ミュージックとして成り立たせているのだ。
そんな彼は,ファッションに関しても流行を意識したスタイルが多い。
今回の衣装は,グレイのオーバーサイズ・セットアップに,インナーはやはり大きめの白シャツ,足元がの丸っこいフォルムのブーツで全体のバランスを取っている。
トレンドのリラックス・シルエットを地で行くスタイル。
曲作りにせよファッションにせよ,うまく時代に合わせることができる器用さを持った人だが,「うちに帰ろう」の成功以降ミドルテンポの曲が多くなった印象がある。
その類まれなるポップ・センスで,そろそろぶっ飛んだ曲を聴かせてほしい。
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6 桑田佳祐と愉快な仲間たち
2022年の紅白,個人的な一番のハイライトはこの企画。
冒頭,「軽音楽部」の部室でギターをかき鳴らしているのが,世良公則,野口五郎,Charの3人。
そこへ
「渋い親父が集まって,ギターを弾いている~。」
と言いながら現れたのは,桑田佳祐。
4人とも黒・白ツートンのブルース・スタイルだ。
渋い。
この4人でアコギのセッションをした後,もう一曲・・・
さらにサポートとして,キーボードに原坊(原由子),ベースにハマ・オカモトを迎える超豪華布陣で桑田が作曲した「時代遅れのRockn’roll Band」を歌唱。
この曲が,お世辞抜きで素晴らしい曲だった。
私たち大人が,子どもたちにどんな未来を残せるのか,そんなテーマを明るく力強く歌った曲。
やはり桑田佳祐は国宝級の天才だ。
そして,結集した格好良すぎる親父たちの熱演がほとんど全ての判断基準となり,私に「白組」投票の青ボタンを押させた。
親父たち,ファッションは勿論格好良かったですよ。
でも,彼らが鳴らす音,その言葉一つ一つに表現者としての矜持が滲み出ていた。
だからこそ,音楽は素晴らしいのだ,と。
そう思わせてくれる珠玉のステージでした。
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ということで,2022年紅白出演アーティストのファッション・チェックでした。
音楽を語る上で,アーティストが着ている「服」にも注目したらより楽しめる,との思いでこのブログを運営しているが,最後はやはり「音楽の力」なのだなあ…と,今回桑田佳祐らのステージを観て改めて感じた。
子どもの命を全力で 大人が守ること
それが 「自由」という名の「誇り」さ
「時代遅れのRockn’roll Band」で,Charはこう歌っていた。
そのメッセージはダイレクトに,聴いている私の胸に響いてきた。
ブログコンセプトとしては身も蓋ない結論になるが,本質はやはり「音楽の力」なのだ。
そんな「音楽の力」(と,ファッションの面白さ)について,またゆるゆると記事をアップしていこうと思っています。
2023年もよろしくお願いいたします。
年忘れジャズ・ナンバー3選
令和4年最後の日になった。
年末の買い出しでイオンに行ったついでにCD屋を覗いて,一枚買ってきた。
チック・コリアの,「リターン・トゥ・フォーエヴァー」だ。
70年代に流行した,ジャズにエレキ・サウンドを取り入れた「フュージョン」の代表的な一枚,という触れ込みだ。
私はこの「フュージョン」期のサウンドについては,マイルズ・デイビスの作品で知っているくらいで,正直難解なイメージしか持っていなかったのだけど,このチック・コリアの「リターン〜」はよかった。
何がよかったかと言うと,カタルシスが分かりやすく表出されている点だ。
特に終盤は,オーケストラのクライマックスが何度も押し寄せてくるような高揚感だ。
ジャンルを越えて,音楽ってやっぱり素晴らしいと思わせてくれる作品だ。
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今年買ったジャズ作品の中では,モダン・ジャズ・カルテットの「コンコルド」もよかった。
中学生の頃聴いていたラジオ番組で,モダン・ジャズ・カルテットの来日公演のCMがよく流れていた。
私のジャズ原体験は,まぎれもなくラジオから響いてきた,ミルト・ジャクソン奏でるビブラフォンの音色だ。
ミルト・ジャクソンの静謐なビブラフォンは,アルバムでじっくり聴いてみても,くっきりとした音像を形作っている。
その演奏からは,何やら「ひやり」としたものを感じる。
なぜかは分からないけど,「ひやり」という表現が一番しっくりくる。
私は,こういう表情のはっきりしている音は好きだ。
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ソニー・ロリンズの「サキソフォン・コロッサス」も,今年買った作品の中では印象深い一枚だ。
アルバムの一曲目,「セント・トーマス」は軽快だ。
全然勿体ぶってなくて,ついカウンターに座って気軽に一杯やりたくなるような陽気さがある。
こんな小粋な曲を聴きながら,年忘れの盃を傾けるのもよさそうだ。
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令和4年最後の投稿は,ジャズについての記事になった。
今年は,もともと好きだったロックに加え,ジャズもよく聴いた年になった。
このブログを通して,様々な音楽について広く,そして深く感じたり考えたりするきっかけをつくることができた。
そして何より,当ブログにいつも立ち寄ってくださる皆様のおかげで,日々の更新の活力をいただきました。
感謝,感謝です。
来年もよろしくお願い致します。
「読書ノート」で振り返る,2022年に読んだ本の回想
以前,当ブログでも紹介したが,私は毎日読書ノートをつけている。
読書に限らず,仕事上のアイデアをまとめたり,プレゼンの流れを書いたり,会議の議事録や講演の記録,聴いたCDの感想など仕事に関することだけでなく,日ごろから考えたことや思ったことを書き残していっている。
そんな読書ノート,現在は今年の3冊目(累計25冊目)が終わろうとしている。
1冊につき100枚の方眼紙で構成されていて,残り15枚ほどだ。
年内に書き終えるのは無理だろうが,来年1月中には新しいノートに移行するのではないだろうか。
今年は,以前から持っていた本の読み返しも含めると50冊ほどの本を読んだ。
今年新しく購入した本で読了したのが30冊程度なので,読書家と自負するには,全く至らない数字である。
しかし,一年間を振り返って,どんな本の,どの部分が響いたのかを振り返るのも,それなりに価値がある。
私が今年読んだ本の紹介ついでに,読書ノートに書き抜きして引用していた部分を回想していきたい。
よければお付き合いください。
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2月 「エフォートレス思考」 グレッグ・マキューン
この本は今年初め頃読んでいた。
購入したのは,この前に出ていた同じ筆者の「エッセンシャル思考」という本がなかなかよかったので,続編となる「エフォートレス思考」も読んでみたいと思ったからだ。
読んですぐに行動したくなる,実践向きの本だ。
その中で印象に残った一節がこれ。
足りないものに目を向けると,今あるものが見えなくなる。
含蓄のある言葉だ。
人間,足りない部分ばかりに目を向けてしまいがちだが,今あるもののよさを忘れてはいけない。
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3月 「ポートレイト・イン・ジャズ」 和田誠・村上春樹
2019年に亡くなった,イラストレーターの和田誠さんと村上春樹によるジャズ・アーティストの紹介本。
ほんわかしていて,何やら示唆的な和田さんのイラストに,村上が自身の音楽体験を交えながら文章を添えている。
人間的には,ビューティフルな人であったに違いない。それは,音楽を聴いていればだいたいは想像がつく。しかし,真に優れた音楽とは(少なくとも僕にとってはということだけど),詰まるところ,死の具現なのだ。そして,その暗黒への落下を,僕らにとって耐えやすいものにしてくれるものは,多くの場合,悪の果実から絞り出される濃密な毒なのである。その毒がもたらす甘美な痺れであり,時系列を狂わせてしまう,強靭なディスとレーション(ゆがみ)である。
「真に優れた音楽とは,詰まるところ,死の具現」
と村上は書いている。
「死」を思う時,私はフジロックでのMy Bloody Valentineの演奏を思い出す。
彼らが生み出す轟音は,「快感」とは正反対で,暴力的で,歪んでいて,どこまでも落ちていきそうなカオスの極致だった。
そんなカオス的な演奏を20分ほど続け,オーディエンスを芯まで疲れさせたのち,不意に聴き慣れたビートが戻ってくる。
そこに,得も言われぬ「安心」を感じた。
なぜだか,「自分は今,生きている」と実感した。
そんな,麻薬的な音楽の在り方が果たして正しいのかどうかは分からない。
個人的にはあんな疲れる音楽体験はもう二度と御免こうむりたいが,忘れることはできない経験であることは確かだ。
「死」と向き合おうとする時,初めてその裏側にある「生」を感じるからこそ,音楽を聴くことはやめられないような気がする。
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3月 「ヒトの壁」 養老孟司
養老孟司さんは,私にとって,原点に返してくれる貴重な作家の一人だ。
そもそも,なんでそうなのか?
本当にそれでいいのか?
彼の著作の多くは,いつも私にそう問いかけてくる。
登校拒否児が増えていると聞くが,学校教育自体が対人に偏っているからではないかと危惧する。いじめの根源はそれであろう。
子どもたちの理想の職業がユーチューバーだというのは,対人偏向を示していないか。なにか人が気に入るものを提供しようとする,対人の最たるものであろう。人が人のことだけに集中する。これはほとんど社会の自己中毒というべきではないか。
「夢はユーチューバーです。」
という子どもは珍しくなくなった。
むしろ,なりたい職業ランキングでも上位に顔を出すほどだ。
別に,それが悪いということではない。
私がやっているブログだって詰まるところ,似たようなものなのだし。
だけど,どんなことをやるかは大切にしたい。
息子がもし「ユーチューバーになりたい」と言い出したら(今のところそんな気配はないが),
「ユーチューバーになって,どんなことを発信したいの?」
と問いたい。
重要なことは,たくさんの人と繋がることではなくて,自分がどんなことを学んで,人生にどう生かしていくのか,という部分に立ち返っていくことではないだろうか。
結果,少しでも多くの人に共感してもらえたら嬉しいけど,共感してもらえるかどうかなんて,自分ではコントロールできない。
そのことについて思い悩むのは時間がもったいないし心の健康にもよくない。
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6月 「人新世の『資本論』」 斎藤幸平
確か昨年ベストセラーになっていた本だが,ようやく今年になって読了した。
結論から言うと,早く読んでおけばよかった。
目から鱗だった。
自分なりに「価値がある」と考えていたことが,根底から揺さぶられた。
こういう本は,(痛みを伴うが)読むべきだ。
しかも,この無意味なブランド化や広告にかかるコストはとてつもなく大きい。マーケティング産業は,食料とエネルギーに次いで世界第三の産業になっている。商品価格に占めるパッケージングの費用は10~40%といわれており,化粧品の場合,商品そのものを作るよりも,三倍もの費用をかけている場合もあるという。そして,魅力的なパッケージ・デザインのために,大量のプラスチックが使い捨てられる。だが,商品そのものの「使用価値」は結局,なにも変わらないのである。
私たちの生活を成り立たせるために,経済政策を優先するのも分かるが,そもそも私たちが生を受けているこの地球がなくなってしまっては,元も子もない。
私たち人間はこの二百年ほどの間に,地球の資源を食い潰し,再生不可能なまでに搾取し尽くしてしまった。
目先のこと(今の水準の生活を維持すること)ばかりにとらわれ,犠牲を負って変化することを拒んでいるし,そのようなことを言う政治家は選挙では勝てないだろう。
結果,何も変わらず貴重な時間だけが無情にも過ぎ去っていく。
しかし,ここ数年の異常気象(特に夏の暑さ,集中豪雨)には危機感を覚える。
SDGsの実践では生ぬるいことは分かっているが,何も行動を起こさないよりは遥かにマシだ。
過度なエネルギー使用を避ける,パッケージは簡易なものを選ぶ。
私も,できることから始めている。
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8月 「激刊!山崎Ⅱ」 山崎洋一郎
「ロッキング・オン」編集長である,山崎洋一郎のコラムを書籍化した第二弾。
アーティストの自由とは,なんでも好きなことがやれて,なんの制約もないことが自由なのではない。嫌なことを乗り越えて好きなことを選び取る自由,制約を突き抜けて思うように貫く自由,それがアーティストの自由だ。だから人々を励まし,勇気と力を与えるのだ。だが,今の音楽業界はアーティストと真正面からせめぎ合おうとしていない。好きに作らせて,ダメなら切るのだ。
ここ数年,文科省がよく言っているのが「主体的」,「個別最適化」などのキーワード。
一人一人の個性を認めたり,集団の中での生きにくさを感じている子を支援したりすることは大切なことだ。
しかし,過度に「配慮」をやり出すと,社会全体が機能不全を起こす。
不登校児童,生徒の増加。
早期離職者の増加。
それらの問題は,おそらく根底で繋がっている。
これは養老さんも書いていたが,何でも便利になり過ぎていて,私たちの我慢や忍耐が効かなくなってきているのだ。
「主体的」というのは,子どもに好き勝手やりたいことをやらせることではない。
社会生活を送る上で,どんなルールがあり,なぜそれが大切なのかを教えた上で,自分で判断して学んでいくことだ。
前提として,不自由があるのだ。
そこを乗り越えていかないことには,自由に振る舞うことは出来ないのだ。
山崎は,そんなことを言いたかったのではないだろうか。
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9月 「超訳 ニーチェの言葉」 ニーチェ
待たせるのは不道徳
ずばり本質をついてくる。
たまに読み返して,足元を見つめ直す。
ちなみに私は,待つ時間はわりと好きだけど,人を待たせるのは嫌いです。
昔,必ず約束の時間から10分程度遅れてくる人がいたけど,正直,閉口した。
そんなふうにはなるまい,自分に言い聞かせてみる。
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12月 「呪われた腕 ハーディ傑作選」 トマス・ハーディ
教養本ばかりの選出になったが,小説も読んでました。
これは短編集だけど,翻訳小説家の柴田元幸さん,村上春樹が廃版になっている名作を選んで文庫化したシリーズ,「村上柴田翻訳堂」。
ハーディの短編は主人公が不幸になる作品ばかりだが,その不幸の成り立ちが,考えさせられるものばかりでついついページを捲らされる。
話の構成は「笑うせえるすまん」あたりに似ているかも知れない。
不幸になるのは分かっているけど,主人公にどんな運命が待ち受けているのか気になって,次が読みたくなる。
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私は音楽を聴くのも好きだが,本を読むのも同じくらい好きだ。
フジロックに行っても,一日の半分は自然の中での読書に費やしたことがあるくらい好きだ。
本というのは高くても数千円程度で,知らなかったことを知れるし,新しい世界を教えてくれる。
物語の世界に没入することもできる。
値段に対して圧倒的なコスパのよさだ。
年末年始くらいは,買い込んでいてまだ読めていない本を沢山読みたい。
皆さんの,今年の一冊は何ですか。
よかったら教えてくださいね。